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バイトテロのこと。 

 SNS上に不適切な動画を投稿して炎上する例が後を絶たない。そのたびに企業側は謝罪することになる。企業の株価は急落し、業績は悪化する。閉店に追い込まれた店舗まで出ている。このような若者が起こす騒動を「バイトテロ」というのだと最近知った。何の目的でこのようなふざけた真似をするのか分からない。仲間内の他愛ないおふざけのつもりが、あっという間に広く拡散されて、当人たちは社会的に批判されることになる。被害者の店舗・企業側が損害賠償請求する動きも目だってきた。さらにこういう不適切動画を探し出してわざと拡散させるグループもいると書かれていたが、その動機も理由も分からない。当人たちの氏名・住所・学校名・顔写真まで探し出して、SNS上でリンチまがいの糾弾をするそうだが、何のためにそんなことをするのだろうか。裁判官や警察官や正義の味方になったつもりでいるのか。あるいはそうすることで何らかの利益があるのか。どちらにしても当人たちもそれを糾弾する側の人間も、どう見てもまともとは思えない。

 このようなバイトテロについて「食の問題」だと指摘している人がいてそうなのかと感心した。たしかにこれらの騒動が起きているのはいずれもコンビニや回転すし、牛丼店、ファミリーレストランといった飲食関連の店なのだ。その人は「食べ物をおもちゃにする」というのは「食べ物への敬愛のなさ」だと書いている。たとえばそれは最近よく問題になるフードロスとも関連がありそうだ。日常的に期限切れ前後の弁当やおにぎりや総菜を廃棄しているコンビニ、余った食材を大量に廃棄せざるを得ない飲食店、そのような光景を常に目にしていれば確かに「食品を大切に思う気持ち」が薄れるとしても、まったく理解できないわけではない。であれば件の動画のように食品やその関連の道具や設備を粗末に扱っても、それほど抵抗がないのだろう。そして同様に衛生感覚もマヒしていく。

 自分が子供のころ、父親は子供の教育やしつけのことについてほとんど何も言わない人間だったが、食べ物についてだけはうるさかった。それは食べ物を作る仕事に従事していたということもあるかもしれないが。例えば食べかけたものを残すと厳しくしかられた。一旦手を付けたら全部食べろと。食べ終わったご飯茶碗に飯粒がいくつかついていても「食べ物を無駄にするな」と怒鳴られた。食べる姿勢にもうるさかった。肘をついて食べていると手の甲を叩かれた。昔の人は食べるものの無い貧しい時代を過ごした人が多いから、大体が食べ物を粗末にすることには厳しかったのだろう。もちろんたとえ裕福でものが豊かにあったとしても、食べ物を大切にすることは人間的な基本ではないかと思う。食べ物は生きるための糧なのだから。もしかしたらこの若者たちはそんな食べ物の大切さについて親からなにも教えられなかったのかもしれない。

 もうひとつ思うのはこれらバイトテロを起こした当人たちが勤める職場の環境や待遇のことだ。コンビニや飲食店は以前から「安い時給で長時間働かされるブラック職場」という言い方をされてきた。そのような職場環境や待遇に対する不満がこれらのバイトテロの背景にあるのではないか。だとしたらいくら企業側が「社員教育を見直します」といっても根本的な解決策にはならないような気がする。職場環境や待遇が悪ければ、いくら形だけの社員教育をしても愛社精神など育つはずもない。そもそも優秀な人間は応募さえしてこないかも知れない。そうであれば一番の解決策は時給を上げて緩やかな勤務シフトを組むことではないのか。そうすれば自ずとモラルや常識をわきまえた優秀な人材が集まるのではないか。もっとも現在のコンビニや飲食店の損益構造ではそんなことは土台無理なのかもしれないけれど。

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貧困国家 日本 

 高齢者の貧困問題がテレビや新聞などでめだって取り上げられるようになったのは4、5年前からだろうか。実際はもっと前からそのような実態だったのだろうが。そして高齢者だけでなく子供の貧困もそれほど間を置かずに報じられるようになった。このような報道に接していると日本という国について考えてしまう。考えないではいられない。それはもちろん自分もそのこととまったく無縁ではないからなのだが。時々国会中継をテレビで見る。そこで行われている議論や質疑応答を聞きながら、彼ら国会議員がこの高齢者や子供の貧困問題について、どのような見識や問題意識を持っているのか一人一人に聞いてみたい気がする。自分にとって貧困問題は東京オリンピックの数十倍も関心があるし、北方領土問題や改憲や韓国との外交問題や日米の貿易問題などよりも重要な問題だ。

 老人や子供たちだけが貧困に苦しみ、その間の世代は大丈夫なのかと言えばもちろんそんなことはない。まだ読んでいないが、「中年フリーター  働けない働き盛りの貧困」という本が紹介されていた。「アルバイトを3つ掛け持ちで妻子を養う」「リストラで仕事と住居を同時に失う」「就職氷河期に正社員になれず、非正規雇用で働き続ける人たち」といった何とも悲惨な見出しばかりが目につく。

 つまり今の日本は全世代が貧困の危機に直面しているということだ。そしてその状況は改善する見通しがまったくないどころか逆に年々悪化している。子供たちが貧困ゆえに高い教育が受けられないのだとしたら、結果的に彼らは非正規雇用の仕事につく可能性が高い。フリーターの中年は年金保険料をすべて払うことが困難だから、年金受給者になった時に低年金しか受けられない。高齢者は様々な理由で破産し貧困化していく。全世代にわたって生活保護受給者がこのまま増加すればその制度自体が崩壊する可能性すらある。

 自分のことを思い出してみる。子供時代に家庭は裕福ではなかったけれど、周囲もみな同じように貧乏だったから、そのことを誰も恥ずかしいなどとは思っていなかった。自分たちの親の世代には、今は苦しくても社会は少しづつ良くなっていくという希望があったのだろう。そして実際そうなっていった。一生懸命働けばだれでもそれなりに報われる社会だったのだ。学校を卒業して社会に出たとき、高望みしなければ正社員の仕事は必ずあった。就職できないなどということはなかった。もちろんそのころ「非正規雇用」などという労働形態はなかったし、自らアルバイトを望む人間だけがアルバイトとして働いていたのだ。会社によってはリストラは皆無ではなかったが、現在のように非正規雇用が全労働者の半数を占めるなどということは考えられなかったし、正社員と非正規のこれほどの賃金格差や、非正規雇用の人間を景気に合わせた雇用の調整弁として「モノ」の使うなどという手法が将来出現するなどと予想した人はほとんどいなかっただろう。

 このような状態はまだいつまでも続いていくのだろうか。日本の社会や経済はこの状態で今後も成り立っていくのだろうか。50年後、100年後には一体どうなっているだろう。明るい光景はまったく見えてはこないけれど、もちろんその時には自分はもういない。

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南牧村と武蔵小杉のこと。 

 先日群馬県西部にある南牧村に関する記事を見た。そこの村おこしに奮闘している若者の記事だった。彼は東京に住んでいて南牧村で生まれたわけでも育ったわけでもない。東京と村を往復しながらボランティア活動をしている。南牧村は面積118.83㎢、今年2月時点の人口が1920人だ。合併で南牧村が誕生した1950年代の最盛期には人口も1万人以上だった。村民の平均年齢は62.5歳、高齢化率は57.1%で、2006年から連続で日本一なのだという。限界集落はとっくに通り越して自治体消滅の危機に瀕している。

 同じように先日NHKテレビの「ブラタモリ」という番組をたまたま見ていたのだが、その時取り上げていたのが武蔵小杉だった。江戸時代の町の歴史などが紹介されていたが、現在武蔵小杉が一番注目されているのは、タワーマンションが林立し、「住みたい街ランキング」で上位にランクされる、以前と様変わりした新しい街としてだ。急速に変わった原因はJR横須賀線・湘南新宿ラインの停車駅になったことだろう。これによって渋谷・新宿や横浜などに短時間で出ることが出来るようになって人気が高まった。それまでの武蔵小杉はほかの南武線の駅同様、駅前にNECやキャノンといった企業の工場が並ぶだけの田舎びた雰囲気の駅だった。現在その工場跡地に40階、50階といった超高層タワーマンションが10棟以上も建設され、さらにいくつもが新たに計画されている。新たにここに住み始めた住人は比較的若い世代が多いようだけれど、分譲価格を見ると7000~8000万円と驚くような高価格の物件も多いから、ここに住むこと自体が一種のステータスということなのだろう。人口も急増し、朝の通勤時間には改札口に行列が出来るそうだ。50階建てなら1棟で1000世帯・居住者数2000人などという規模のものもあるだろう。それだけの人数がたかだか数十m四方の面積の上に建てられた超高層の建物に住んでいるのだ。それは南牧村の人口とほぼ同じである。人気番組らしいから南牧村の住人でこのテレビ番組を見た人も多いのではあるまいか。彼らは武蔵小杉の街の風景を見て、果たして何を思っただろうか。自分たちの村と比較しただろうか。

 この南牧村と武蔵小杉のあまりの落差に、東京への「一極集中」などという言葉一つでは簡単に片付けられない、何とも言えない危うさとやるせなさを感じる。いつからなぜこうなってしまったのか、今後もこの歪な動きは進むのか、それを見直し修正する知恵や方法はあるのか。考えてもこの頭ではよく分からない。けれどもおそらく地方の過疎化も東京の飽和化も、どちらも日本を幸せにはしないような気がして仕方がない。

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読書会のご案内 

 3月16日(土)に午後の時間割にて読書会を開催します。

興味のある方は下記に問い合わせください。

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春と関係ない話題ばかりで。 

 今月末にベトナムでの2回目の米朝首脳会談を控えているトランプ大統領が15日の記者会見で、北朝鮮問題への対応を巡って安倍首相から「ノーベル平和賞に推薦した」と伝えられたと語った。どうやらフェイクニュースではないらしい。今年11月の中間選挙を控えて外交実績を挙げたいトランプ大統領は、北朝鮮に対して米本土が危険になるICBMの廃棄だけは強硬に求めるだろうが、日本が射程に入る中距離核ミサイルは容認する可能性がある。この時期に安倍首相がなぜこういった歯の浮くような外交辞令を使うのか分からないが、このあたりの安全保障上の思惑があるのかもしれない。あるいは「拉致問題の解決に協力を」とでも言っているのか。しかしトランプのノーベル平和賞の受賞も100%ないとは断言できない。なんといっても過去にヘンリー・キッシンジャー元国務長官も「ベトナム戦争の和平交渉」という理由で受賞しているし、佐藤栄作元首相も「非核三原則の提唱」という理由で同様に受賞している。どちらもまるでブラックジョークのようだが、これがノーベル平和賞の本質なのかもしれない。それならばトランプ大統領の受賞も十分可能性がある。

 今度の日曜日に普天間基地の辺野古への移設の是非をめぐる県民投票が実施される。県民投票の結果に法的拘束力はないが、今後の基地問題にまったく影響しないということでもないだろう。日本政府は「危険な普天間基地を移設することが県民の安全のために必要であり、そのために辺野古への移設は不可欠だ」という従来の主張をまったく変えていない。辺野古移設反対派は、普天間の固定化を避けるためにも今後なんらかの代替案を示す必要があるだろう。

 政府は日米合意に基づく米空母艦載機の陸上離着陸訓練(FCLP)の硫黄島からの移設先として、鹿児島県西之表市にある無人島の馬毛島を160億円で買い取ることで合意した。どうも土地買収を巡る巨大な利権が蠢いているようだが、こちらには分からないし、公にされることもないだろう。地元には移設への反対論があるようだ。政府は硫黄島(東京都)から馬毛島(鹿児島県)への県外移転は簡単に決めるのに、なぜ辺野古(沖縄県)から県外への移設は頑なに拒絶するのか。馬毛島のような基地建設が可能な無人島は沖縄県や鹿児島県には他には存在しないのだろうか。どうしてそのような議論がなされないのか、あるいは公に話題にも上らないのか。どうも釈然としない。民主党政権時代、鳩山首相は普天間基地移設に関して「最低でも県外」と言ったことが「実現の見通しもないのに無責任だ」と批判されたが、そのときすでに鳩山政権の中ではこの馬毛島への移設も検討されていたようだ。なぜ実現しなかったのかは知らない。

 西高東低の冬型の気圧配置が徐々に崩れてきて、関東でも雨や小雪がよく降るようになってきた。「三寒四温」の通りに寒い日と暖かい日も交互にやってくるようにもなった。今週から気温は大分上がってくるようだ。毎年同じように繰り返している季節の移り変わりだと言われればそれだけのことなのだが、春が近づいているのを感じるのはやっぱり嬉しい。

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宝くじのこと。 

 最寄り駅を降りると駅前に銀行があって、その前に小さな宝くじ売り場がある。生まれてこのかた宝くじを買ったことが一度もない。買おうと思ったこともない。深く考えたことはないが、買わなかった理由は分からない。単に買うゆとりがなかったということでもないけれど。その宝くじ売り場の前を通ったら、「この売り場から1億円出ました」と書かれたポスターが貼ってある。高額の当たりくじが出た売り場はまた出る確率が高いのか、それとも単なるジンクスなのか知らない。おそらく後者だろう。

 宝くじの売り上げがピークだった2005年(約1兆1000億円)に比べて2017年は約7800億円と30%も減少したと記事に書かれていた。この減少数字は小さくない。宝くじの売り上げは地方自治体の収入になるから、この売り上げの減少は人口減少などで税収の伸びが見込めない自治体にとって、さらなる収入減少ということになってしまう。少子高齢化と貧困化の影響はいま日本のいたるところで、あらゆるものに現れている。無関係なものを探す方が難しいくらいだ。

 売り上げ減少の分析として「主な購入者だった中高年が年金受給者になり、自由に使えるお金が減った」ことが理由の一つと書かれているがどうだろうか。年末ジャンボ宝くじなどは1枚300円だからそれほど影響があるだろうかと思うけれど、買う人はまとめて何百枚も買うそうだから、たしかに結構な金額になる。一方では当選率が低すぎるからだという批判もある。若年層は宝くじよりもtotoやサッカーくじのような「スポーツ振興くじ」を買う傾向が強くなっているらしい。実際こちらの売り上げはさほど落ちていないようだ。最近ネットでも宝くじが買えるようになったそうだから、売り上げ回復も期待できるかもしれない。

 夢を求めて宝くじを買うのだから、景気が悪いほど宝くじは売れるなどという声を聞いたことがあるけれど、実際はどうなのだろう。ほとんどの人は1億円が当たるなどとは思ってはおらず、けれども心のどこかで「万一」「もしかしたら」と思いながら買うのかもしれない。それが「夢みる」ということだから。年末に宝くじ売り場に行列ができる光景は「年末の風物詩」などとよく言われてきた。あの光景が消えてしまったらたしかに少し淋しい気分にはなりそうだ。

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レオパレス21と空き家問題のこと。 

 レオパレス21の施工不良問題が盛んに報道されている。界壁がないなどの中身を見ると、これは施工不良というより建築基準法違反の明らかに違法建築だ。社長は会見でこのような事態になった原因を「作業の効率化を図った結果」だと言い訳していたが、これはどう見てもコストダウンのための手抜き工事に見える。同社の施工不良問題は数年前から指摘されていた。実際に住んでいた経験者からは、「とにかく壁が薄くて隣の部屋の音が筒抜けだった」というような声が多く挙げられている。行政の建築確認作業の不備も指摘されているが、今後どのような展開になるのだろうか。今回の不祥事でレオパレス21の株価は急落、倒産を予測する声まで出始めている。改修工事のために現居住者は近日中に退去しなければならないのだが、折からの引っ越しシーズンに重なり、引っ越し業者を見つけるのも大変のようだ。けれどもさらに深刻なのは多額の借り入れをして、同社の賃貸住宅を建てたオーナーの人たちだろう。

 レオパレス21はこの業界の大手のひとつだが、「相続税対策のための土地活用事業」というのがそのビジネスモデルだ。つまり余っている広い土地の所有者に、「相続税を軽減させるために銀行から借り入れをして賃貸アパートを建てませんか」と提案する営業活動をするのだ。その時に空室の心配をする土地所有者に、同社が持ち出すのが「30年一括借り上げ」をして家賃保証する「サブリース契約」というものだ。しかし当初「10年間は家賃は不変」と謳っていたものの、リーマンショックによる経営の悪化を理由に10年も経たないうちに家賃の減額を求められたオーナーが、レオパレス21を相手に集団訴訟を起こすという騒動が、今回の事件が明らかになる前から起こっている。

 現在の日本は少子高齢化で遂に人口は減少局面に突入した。アパートやマンションの賃貸事業の今後があまり明るくないことは容易に想像がつく。それは現在都心に雨後の筍のように次々に建設される高層タワーマンションの販売見通しもまったく同じだろう。明らかに住まいは余っていくのである。「駅から至近距離」「都心に近い」「周辺にスーパーや学校がある」などの好立地でなければ、賃貸でも分譲でも買い手や借り手がすぐに見つかるというわけには今後いかないだろう。駅から離れた田んぼや畑の真ん中にレオパレス21の賃貸アパートが何十棟も集中する、「レオパレス銀座」などと呼ばれている場所もあるというとんでもない実態が報じられたが、明らかに近いうちに空室が増えるだろう。その時に同社の「一括借り上げの家賃保証」というシステムが崩壊したら、オーナーは借り入れをした銀行に払うローンをアパートの家賃収入で支払えなくなる。今後このような深刻な問題が起きることは十分予想される。

 少子高齢化の影響はこんなところにも顔を出しているが、不動産価格の崩壊や住宅の空き家化・スラム化は日本の今後に暗い影を投げかけているし、その兆しが見えているところはたくさんある。今回のレオパレス問題で自分が一番考えたのはその危機のことだ。

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はしかと国境の壁のこと。 

 大阪と東京を新幹線で往復していた女性がはしかに感染していることが分かり、不特定多数の人に接触したおそれがあるとして、大阪府は女性が乗った便名などを公表して注意を呼び掛けている。また大阪市はあべのハルカス内にある百貨店で、従業員がはしかに感染し、これまで従業員10名のほか客6人への感染も判明したと発表した。このように大騒ぎになっているのだが、はしかの感染力がインフルエンザの10倍もあるのだと初めて知った。これでは短期間で感染が拡大してしまう可能性がある。受験生や妊婦や幼児を抱えた人たちはとくに心配しているだろう。

 自分の記憶では小学生時代にはしかには罹っている。そのころ住んでいたのは人口が1000人にも満たない小さな集落だった。自家用車はまだ一般に普及していなかったし、電車の路線が開通したのは東京オリンピックの年だったからその数年後だ。集落の外に出るにはバスを使う以外なかったし、外からやってくる人も稀だった。つまり陸の孤島のようなところだったわけだ。だからはしかに罹ろうがインフルエンザが流行しようが、それは集落内で完結して外部に広がるようなことにはならなかったのだと思う。

 現在はどうだろう。東京から飛行機で札幌へ行って、午後に福岡を回って夜には羽田に帰ってくる、などということが不可能ではない時代だ。さらに多くの人が気楽に海外旅行に出かけていく。逆に海外から日本にやってくる旅行客も年間3000万人と言われる時代だ。感染症などあっという間に日本中に広がるだろう。「パンデミック(感染症の世界的・全国的な流行)」はもうパニック映画の世界だけではなく、現実の脅威になっている。日本は欧州や韓国・オーストラリアなどと比べて、ワクチン接種などが不十分なために「はしか対策後進国」「はしかの輸出国」と揶揄されているのだそうだ。しかしエボラ出血熱のような致死率の高い感染症がもし日本で流行したらと思うと恐ろしい。

 感染症の世界的な流行はグローバリズムの代償として受け入れざるを得ないものなのだろうか。難民や移民の流入を100%防ぐのが難しいように、感染症を国境の水際で予防することはやはり至難の業だろう。

 トランプ大統領は予算案で民主党と妥協して、混乱は収束するかと見られていたがどうやらそうではないらしい。選挙公約である壁建設費用を連邦議会の承認なしに確保するため、国家非常事態宣言を発令する意向を示している。あくまで壁建設に固執しているようだ。そこまでして守ろうとしているのは一体何なのか。

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三寒四温かな。 

 夕方5時半になってもまだ明るかった。毎年のことなのだけれど、徐々に日が伸びてくる今頃の季節はうれしい。

 今日「バレンタインデー」という言葉を忘れてしまい、しばらく思い出せなかった。過去あまりに縁が薄かったからだろうか。最近「義理チョコはやめよう」という声が出ているそうだ。また「職場内でバレンタイン禁止令」が出たなどというニュースもあった。義理チョコを贈るほうも貰うほうも負担になっているということが背景にあるようだ。あるアメリカ人が言うには「アメリカではバレンタインデーには、妻や恋人をディナーに誘ったり花を贈ったりする。同僚や上司に贈るものではない」ということらしい。もともと日本でチョコレートを贈るようになったのも、洋菓子メーカーや販売店が売り上げを伸ばすために考えた販促策だったのだろう。会社での義理チョコも社内のコミュニケーションをよくするための方策だったのだろうが、それがストレスになってしまっては本末転倒だ。

 スルガ銀行、レオパレス、ケフィア、テキシアジャパン・ホールディングスといった社名が今日のニュースで報じられた。施工不良問題が拡大したり、不正融資によって大きな赤字を出したり、投資詐欺によって社長が逮捕されたり、出資法違反の結果会社が破綻して社長の息子が自殺したりと、いずれも不祥事ばかりだ。顧客を騙して一時はいい目を見たとしても、最後は「因果応報」ということなのだろう。法の裁きを受けることになる。しかしそこに共通しているのは何とかお金を得たい、資産を増やしたいという人々の欲求と、その弱みにつけこむ悪徳会社の罠だ。これも「うまい話には裏がある」という言い古された教訓そのままだ。うまい話などあるはずがないのだ。仮に本当にあったら誰にも教えるはずがない。

 沖縄県の辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否を問う県民投票が今日告示された。投票は「賛成」「反対」「どちらでもない」の三択で行われる。ここに来るまで紆余曲折があったのだが、この「どちらでもない」にはどうしても引っかかる。なぜ賛成・反対の二択ではできなかったのか。「どちらでもない」というのはどういうことなのだろう。「迷っていて決められない」ということか、どちらにも「一長一短がある」ということなのか、あるいは「棄権」を意味しているのか、それとももっと他の意味合いがあるのか。しかしこの三択にせざるを得なかったところに、今の沖縄の混迷と複雑さと苦悩が滲み出ている。

 先週は立春だったが、来週火曜日の19日は「雨水」だ。予報でも来週は今週に比べて暖かくなると言っている。文字通り降っても雪ではなく雨になるかもしれない。冬の終わりが見えてきた。

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藤田孝典著 「続・下流老人」を読む。 

 いつからそうなってしまったのか分からないけれど、

 いつの間にか日本は、死ぬまで働かなければ生きていけない国になっていた。だから70歳どころか80歳過ぎても働かなければ生活できない高齢者が大勢いる。

 現在高齢者が受け取っている老齢年金(国民年金及び厚生年金)でもっとも多いのは毎月の支給額が6~7万円の人たちだそうだ。これではとても「健康で文化的な最低限度の生活」はできない。驚くことにこの額は生活保護費の約半分でしかないのだ。

 十分な額の年金をもらい、あるいは貯蓄もそれなりにある人さえ、あるきっかけでその安定した老後の生活があっという間に暗転する。その原因ははリストラ・親の介護・疾病による高額な医療費・あるいは引きこもりの40代の息子の扶養の費用であったり、離婚して実家に戻ってきたシングルマザーの子供たちの養育費・教育費援助だったりする。

 そして自分たちがそんな境遇に陥る直前まで、そうなるなどとは夢にも思っていないのだ。年金だけは徐々に減り、介護保険料は上がる一方だ。食費も住居費も介護費も医療費も上がることはあっても下がることはない。

 半世紀前までは当たり前だった「悠々自適」の老後生活や穏やかでのんびりした「余生」は、今は多くの高齢者にとって手に入れることが難しい。

 「一億総老後貧困社会」を安易に、個人の自己責任論によって問題を矮小化しても何の解決にもならないだろう。現在の日本の様々な社会システムにこそ問題があるのだ。そしてその責任を担うべきは本来政治であり政治家であり政権だ。たとえば現在国民の税金が本当に国民にとって必要なものに使われていないことは明らかだ。だからこそそれらを正そうとする人たちに我々は投票すべきなのだ。

 しかし日本は世界でも有数の超高齢化社会になったというのに、同時に世界でも有数の「長生きしたくない社会」になっているのではあるまいか。これをなんと言うのだったか。

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ニュース 

 白血病であることを公表した競泳の池江選手に対して、「金メダル候補で、日本が本当に期待している選手なので、がっかりしている」「盛り上がりが下火にならないか心配」と悪びれもせず会見で感想を述べた桜田五輪相と罷免しない安倍首相。

 「子供を産まなかった方が問題」と5年前と同じ持論を展開した麻生財務相と罷免しない安倍首相。

 自身のことは棚に上げて、過去の民主党政権を「悪夢のようだ」と発言したが、国会で野党から痛いところを突かれるとすぐ興奮する安倍首相。

 ふざけた動画をSNSに投稿して炎上する「バカッター」な若者たちの急増。

 一向に減らない悪質な煽り運転。

 野田市の女児虐待死事件で、次から次へと明らかになる児童相談所の驚くべき無責任な実態。


 もう毎度のことだが、新聞やテレビやネットのニュースを見るたびに憂鬱になっていく。空がどんより曇って寒いからよけいに気分が滅入ってくる。別に楽しいニュースばかりを求めているわけではないけれど。

 何も山奥の電気の通じていない、携帯が圏外でWi-Fiも使えないような辺鄙なところに住まなくても、テレビを見ず、新聞も読まず、パソコンもスマホも使わなければ情報を遮断できる。そうすれば嫌なニュースも目にしなくて済むのに、どうしてもそれができない。日本はどんどん嫌な国になっていく。そして優柔不断な自分自身にも増々嫌気がさしてくる。

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寒い国のことと記憶の話。 

 土曜日は関東でも大雪になるという予報が出て心配したが、幸い大したことがなくてほっとした。今日も関東の一部では雪が降るといっている。たしかに見上げるとどんよりとした、今にも雪が降ってきそうな鈍色の空だ。今の季節、北陸や東北や北海道は毎日このような空模様が続くのだろうか。一度も住んだことがないし、冬に雪国に出かけたこともないので分からない。

 昨夜遅くにネットで「The Bridge/ブリッジ」という、スウェーデン・デンマークの合作テレビドラマを見ていた。これはスウェーデンとデンマークを舞台にした刑事ドラマなのだが、描かれているのは大概猟奇殺人事件だ。数年前から「アスペルガー症候群」「ADHD」「自閉症スペクトラム」「発達障害」といった、以前にはなかった様々な症例名を聞くようになった。主人公の女性刑事は非常に有能なのだが、これらの症例を感じさせるようにまわりの空気が読めず、相手の気持ちを推し量ることができない。そしてそのことによって相手から敬遠されても全く意に介さない。このドラマが気に入っているひとつに映像の雰囲気がある。全体的につねに暗いのである。それは風景だけのことではない。独特な画像処理を施しているのだろうが、カラーで撮っているのに画面が常にモノクロームのように色を感じさせない。もちろんドラマの雰囲気に合わせているのだろうが、本来北欧の気候自体がこのような暗さを感じさせるのかもしれない、日本の冬の北陸地方と同じように。タイトルの「ブリッジ」とはデンマークのコペンハーゲンとスウェーデンのマルメを結ぶ国境のオーレスン橋のことを指していて、最初の事件もこの橋の上から始まることになる。

 最近ブルース・コバーンの曲ばかり聴いている。ブルースはカナダ出身のシンガーソングライターだが、ギターがとても上手い。日本でどのくらい知られているのかは知らない。初めて彼の歌を聴いたのはもう50年近く前のことだが、どのようなきっかけで聴くようになったのかもよく覚えていない。聴いていて気がついたのだが、彼の曲は冬に似合っている。冬になると余計に聴きたくなる。カナダがどのような風土なのか、行ったことがないので知らないが、アラスカなどと同様に北極圏に近い所にあるからとくに冬は寒いのだろうと想像する。雪もたくさん降るだろう。カナダは北緯50度~70度の中にある。主要都市のオタワやモントリオールは北緯45度付近だから、日本でいえば北海道の稚内付近とほぼ同じだ。前述のブリッジの舞台のコペンハーゲンとマルメは北緯55度付近にあるからさらに北だ。何を言いたいかといえば、ブルースの曲はもの悲しい雰囲気の曲が多いのだけれど、それは寒い北の風土と関係があるのではないかと思ったのだ。たとえばキューバのサルサ、ジャマイカのレゲエ、ブラジルのサンバなど暖かい国で生まれた音楽は総じて明るく、すぐにダンスが始まるような軽快さがある。ブルースの曲を聴いていても楽しいという気分にも、踊ろうという気分にもなりにくい。ブルースの曲からは鮮やかな色は想像できず、件のドラマ「ブリッジ」と同様モノクロームの世界が浮かんできてしまう。

 「人間の脳は記憶を書き換える」というのは脳科学の分野なのか心理学なのか知らないが、よく聞く話だ。人間の脳は都合よく自分の記憶を変えることができ、その書き換えられた記憶をあたかも正しい記憶として脳が認識するようになるという説だ。これが事実なのかどうかは分からないが、何十年も前の自己の曖昧な記憶を、こうだったと思い込もうとしている自分に気がついて驚いた経験がある。人間は悪い記憶はなるべく早く忘れようとし、楽しかった良い記憶を長く残しておきたいと本能的に脳が働くのかもしれない。それは一種の防御反応なのだろうか。脳の中は随分複雑だ。

 今日読んだ本に「記憶の錯覚」のことが書いてあった。「人は記憶を脳に定着させる時、『本当にあったこと』だけでなく、『あるべきこと』を勝手に混同させてしまう。」そしてその実例として2008年の大統領選で、ヒラリー・クリントンが犯した致命的な「戦場体験の嘘」を挙げている。彼女は選挙演説で1996年にボスニアを訪れた際の恐怖体験を語った。

 「私は、着陸したときに狙撃兵の銃火を浴びたのを覚えています。空港では歓迎式典が行われる予定でしたが、私たちはひたすら頭を低くし、基地へ向かう車まで走りました」と語ったのだ。だがその後「ワシントンポスト」紙がその話を調べて当時の写真を掲載した。またニュースビデオも掘り起こされた。そのどれにもヒラリーが普通に飛行機から降り立って、空港で行われる平和な式典へ穏やかに歩く姿が映されていた。

ワシントンポスト紙はこの件について次のように指摘した。
 ヒラリー・クリントンの話は三通りにしか解釈できない。
① 彼女はとんでもない嘘つきである。
② 彼女の現実を見る目は完全にゆがんでいる。
③ 彼女の記憶は完全に狂っている。
 彼女は単なる勘違いをしていたのか。それとも60歳の彼女の12年も前の記憶が曖昧になっていただけなのか、それとも「そうあるべきこと」として脳が記憶してしまったのか、それは分からないが、この記憶の捏造は大統領選の敗退の大きな要因になったと言われている。

 庭の紅梅が咲いている。
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時代は大きく変化している、それも悪い方へ。 

 今日の朝刊の一面は、厚労省が「児童相談所が子供を保護する『介入』の機能を強化する方針を固めた」というニュースだった。「支援」と「介入」の機能を分化させて「介入」を最重要視させようということのようだ。またすべての児童相談所に弁護士・医師・保健師を配置することも検討しているとも書いてある。

 虐待が疑われた場合、「児童相談所は危険があると判断すれば、保護者の同意なしに子供を一時保護する権限を持つ」ようだが、今回の野田市のケースの場合なぜその機能が十分に発揮されなかったのか、厚労省は細かく検討したのだろうか。

 根本厚労相は8日の衆議院予算委員会で、虐待に対応する人材の専門性を高めるため、現在は指定の講習会を受講するなどの条件を満たせば得られる「児童福祉士」の国家資格化を検討する考えを示した。

 安倍首相は「児童相談所は人数が少なくて大変だ。今は3200人だが平成31年は一気に1000人増やす。その後5000人体制にする」と述べている。

 昨年東京都目黒区で起きた当時5歳の女児死亡事件、今回の野田市での同様の事件ではいずれも児童相談所の対応が批判された。これに対応して政府がやっと重い腰を上げたというような印象だが、果たしてこのような付け焼刃的な対応で状況が改善されるか疑問だ。

 人手不足もさることながら、児童相談所や学校が、虐待が疑われる児童の家庭への介入になぜ及び腰になるのかという分析が重要だ。そこにはプライバシーの保護や個人情報保護といった壁があるのだろうし、今回の野田市の事例で明らかになったように父親の恫喝に屈せずに現場で対応するのは至難のことだ。保護者からの精神的・肉体的暴力への恐怖心もあるだろう。教師や児童相談所職員に豊富な経験や胆力がなければ本来求められる対応は難しいだろうし、出来なかったからといって100%教師や児相職員を責められない。児童相談所には医師・保健師・弁護士の他に警察官の配置も必要かも知れないし、また学校にも同様のバックアップ体制が必要だろう。

 近年のような死亡にまで至る児童虐待事件がこれほど頻発することは数年前まで予想もされなかった。それは学校や教師に対して自己中心的で理不尽な要求をする、「モンスターペアレント」と呼ばれる児童の親の存在の増加もまったく同様だ。学校現場では、長時間労働と共にそのような親への対応に疲れ果てた多くの教師が、うつ病を発症して休職するという異常事態になっている。

 だから従来の常識や対応では事態は改善しない。発想の180度転換が必要なのだ。そして待ったなしの迅速な実行もまた求められている。悠長な議論や能書きを垂れている場合ではない。しかしここまでの対応を見ると、政府や厚労省・文科省がそのことに本当に気がついて動き出そうとしているのか甚だ疑問なのだが。

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西行の歌と高齢化の問題 

 願わくは 花の下にて春死なむ

 その如月の 望月のころ


 これは西行法師の有名な歌で、以前ここにもこの歌について書いたような気もするが、その中身はほとんど忘れている。

 「如月の望月のころ」は旧暦の2月15日で太陽暦では大体3月末に当たり、まさに桜の満開のころだ。出家した西行は釈迦入滅の日と言われるその日に死にたいと願ったのだろう。この歌は西行の釈迦への憧れを詠ったものだ。驚いたことに彼は1日遅れの2月16日に没して、当時の人々が驚嘆したと伝わっている。

 望月というのは満月のことだ。ここで詠われているのが昼のことなのか夜のことなのか分からない。よく晴れた昼に見る満開の桜の美しさはたとえようもないが、満月の下で見る夜桜にも妖しい美しさがあるに違いない。どちらにしてもそこには絵画的ともいえる風景がある。

 しかし桜の花の下で死ぬというのはどのような状況が考えられるだろう。余命いくばくもない人が誰かに車椅子を押してもらって、花見にいくというような場面だろうか。あるいは元気だった人が、賑やかな花見の宴会の途中で心筋梗塞を起こして急逝するというような場合だろうか。

 現実にはどちらもなかなか難しいような気がする。前者の場合、本人にそれほどの気力がすでにないような気もするし、誰かに希望を伝えることも難しくなっているかもしれず、また医療者がそれを許可しないかもしれない。後者は果たして都合よくタイミングが合うかという確率の問題だ。

 医療技術の進歩をはじめ様々な理由で人間の寿命が年々伸びていく。それに伴って尊厳ある死、あるいは潔い死というものが難しくなっている。望まなくても生かされてしまうという現実もある。そんな不条理はメディアを見ればいくらでも実例を見つけることが出来るし、自分の周囲でも容易に目にする。だれもが「ピンピンコロリ」と逝きたいと思っていても、それができるのはほんの一握りの幸運な人だけだ。望まなくても生き永らえてしまうというのも超高齢化社会の現実なのだが、西行が生きた時代の人々には逆に求めても長生きできない様々な障壁があったことだろう。

 西行の歌に戻ると、桜の満開の下でうたた寝でもしている間に逝けたら、もうそれは理想的と言う以外にない。そしてこの歌を思い出すたびに、自分もそれを夢みているのである。

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愚かである。 

 回転寿司チェーン「くら寿司」を展開するくらコーポレーションが、インターネット上で話題になった不適切な動画を投稿した従業員2人に対する処分を発表した。退職処分と同時に刑事・民事での法的措置の準備に入ったことを明らかにした。問題の動画は従業員が切った魚をゴミ箱に投げ入れ、すぐに拾ってまな板に置き直している様子が映されている。これ以外にも最近はこの手の飲食業界における不適切で不衛生な動画がSNS上に散見される。

 法律に詳しくないので会社側がどのような法的措置を取ろうとしているのか分からない。威力業務妨害や名誉棄損や食品衛生法違反といった法律によって損害賠償請求訴訟を起こそうとしているのだろうか。

 しかし最近、このようなふざけた動画と共に注目されやすいように危険な行為を撮影した動画をSNS上に投稿する例が多いらしい。実際その結果当人が大けがをしたり死亡したりすることもあるというから驚きだ。

 しかし今回のくら寿司の従業員が何を考えてこのような動画を投稿したのか、動機などの詳細は報道されていないので分からない。しかしあまりにも幼稚で愚かな行為であることは間違いない。しかし行為がいくら幼稚でも、それに対する罰則は幼児並みということにはならない。彼らは大きすぎる代償を払って、単なる悪戯や冗談で済まなかったことに気づくのだろう。この従業員が何歳なのか知らないが、このような行為が許されるのはせいぜい幼稚園か小学校低学年くらいまでだ。

 しかし今回の騒動は会社側の社員教育が不十分だったから起こったというレベルではないような気がする。彼らがこの行為の是非を理解するためには、痛い目に会って学習するほかないのだろう。もしこの行為が会社の待遇や職場環境や過剰労働に対する抗議の意味があったとしても、とても容認されるようなやり方ではない。もしそうならあくまで正当な方法で告発すべきである。もっともそれほどの意志も使命感も切実さも、投稿された動画からは読み取ることは出来ないが。

 しかし個人的には、このような愚かしい行為がなくなるように、より広く周知されるように、くら寿司には法的な措置を貫徹してもらいたいと思う。それは「見せしめ」とは違う。彼らに同情の余地はないし、個人的にもまったく同情などしない。

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飛行機雲 

 朝歩いているときに空を見上げたら飛行機雲が見えた。飛行機は東から西へ向かって飛んで行った。飛行機雲はいつでもできるものではないらしい。高さ・上空の温度・湿度・空気の流れなどの条件が揃わないと発生しない。そういえばこれだけ頻繁に飛行機は飛んでいるのに、飛行機雲を見る機会はそれほどない。

 飛行機雲はエンジンの排気ガスから出る水蒸気が冷やされて氷の粒になって出来る場合と、空気の薄い上空を飛ぶとその後ろに小さな渦巻きができ、この渦巻きのまわりの空気の温度が急激に下がって出来る場合の二種類があるそうだ。高度100m毎に気温は0.6度下がるそうだから、上空1万mでの気温は地上よりも60度低いことになる。今朝の気温が10度とすると上空では-50度になる。きっと飛行機雲は夏よりも冬の方ができやすいのだろう。

 こちらが飛行機を見上げているように飛行機の乗客も地上を見下ろしているだろうか。高所恐怖症の自分はとても窓から外を見る度胸がないのだが。

 天気予報で、上空約5000mの気温が-36度以下が大雪になる目安だといっていた。今日は暖かかったが明日から真冬の寒さになり、今週の土曜日は関東でも雪が降る予報になっている。春はもうすぐそこまできているというのに。

DSC_0295  飛行機雲1

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「ロコモ」と「サルコ」の話。 

 「ロコモとサルコ」という言葉を見て、一体何のことだろうと思った。それでそこに書かれた記事を読んでいた。

 「ロコモ」「サルコ」と聞いて、その意味を答えられる人はよほど健康に関心のある人だと、まず最初に書いてあった。

 「ロコモ」は「ロコモティブ・シンドローム」の略で、「運動器症候群」と訳されている。これは骨・関節・筋肉など体を支えたり動かしたりする運動器の機能が低下し、要介護や寝たきりになる危険が高い状態のことだ。これになるとたとえば膝や股関節、腰などが痛くて歩けない状態になる。結果的に自宅からの外出が減るため、社会的に孤立しやすくなる。また家にこもってテレビばかり見ている生活を続けると、徐々に無気力になり認知機能も低下する。

 「サルコ」は「サルコペニア」の略で加齢や疾病によって筋肉の量が減少することを指す。これによって全身の筋力低下および身体機能の低下が起こる。そうなると立ち上がったり起き上がったりすることさえ難しくなり、いずれ寝たきりになる。サルコになると転びやすくなり、骨折して寝たきりになるとさらに筋肉量が減り、治ってもまた転びやすくなるという悪循環になる。

 このほか関連して「フレイル」という言葉も解説されていた。「フレイル」は「加齢に伴い身体の予備能力が低下し、健康障害を起こしやすくなった状態」と説明されている。

 これらの言葉を知っているかどうかは大した問題ではない。大事なのはその内容が高齢者の健康と密接な関係があるということなのだ。現在の日本人の平均寿命は男約81歳、女約87歳だが、健康寿命で見ると男約72歳、女約75歳と、男で9年女で12年短くなっている。

 健康寿命というのはWHO(世界保健機関)が2000年に提唱した概念だから歴史は新しい。おそらく急速な高齢化に対応して考えられたのではあるまいか。健康寿命とは「心身ともに健康で自立して活動できる期間のこと」だ。自力で食事・排泄が可能で、かつ認知症などを伴わず自分の意思によって生活できるということだから、もちろん寝たきりや認知症の高齢者はこの健康寿命の範疇には入らないということになる。いくら長生きしても、認知症で徘徊を繰り返したり、ベッドで寝たきりで人工呼吸器をつけたり胃瘻をしている状態では、生きているとは言えないという意見は多い。

 だからそのためには前述した「ロコモ」や「サルコ」にならずにいかに長く生活できるかが重要だということになる。

 ロコモやサルコや認知症を予防するための方法は様々なところで紹介されているが、「食生活」「運動」「生活習慣病の予防」「人とのコミュニケーション」などが重要だという点では一致している。そして多くの人はすでにそれを知っている。問題はなかなかそれを実行できないところにある。

 自分の部屋は3階にあるから毎日結構な回数上り下りする。否応なしだからものぐさな人間には運動になってちょうどいいのかもしれない。半世紀近く前に建てられた老朽化した団地で、5階建てなのにエレベーターがないことが、高齢化社会に対応していないと問題になることがある。しかしロコモやサルコ対策の点から考えるとこの階段の上り下りは有用ではないのだろうか。実際5階に住んでいる人からは怒られるかもしれないが。しかし自分自身のライフスタイルを考えると、どうもロコモやサルコや認知症になりやすいような気がして仕方がない。

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片づける。 

 海外の映画やテレビドラマを見ていて毎回思うことがある。それはお金持ちの家の中はモノ(家具やインテリアや家電製品やその他雑多なもの)が少なくすっきりしているということだ。おまけに部屋が広いから何もないということが余計に目立つ。これはスクリーンの中だけのことで、現実は違うのかどうか確かめたわけではないので分からない。もしかしたら大きな家にはどこかに広い収納スペースがあって、普段はみなそこに収めているのかもしれない。

 日本の一般的な住宅を考えると好対照だ。日本の(富裕層の家庭は除いて)一般住宅の部屋はほとんどが四畳半や6畳というパターンが多い(もうずいぶん昔、このような日本の住居は「ウサギ小屋」と呼ばれた)。8畳や10畳なら広いほうだ。そしてその狭い部屋にさらに机や椅子やベッドといった家具が置かれるから、余計に狭くなって使えるスペースはさらに少なくなってしまう。自分の家もまったく同じだが。

 住居の広さの違いに経済的な格差があるのは間違いない。日本は土地の価格が高いから都市部では広い土地を買えない。そして土地購入に大きな費用がかかるから住宅に回せるお金が少なくなる。だから結果的に「狭い土地に小さな家」ということになる。しかし広い家に住む人が多くの物を部屋に置かず、狭い家に住む人の部屋に物が溢れているというこの現象は興味深い。

 お金持ちというのはモノを買わない傾向があるのだろうか。買おうと思えばいつでも買えるから、本当に必要なものしか買わないということがあるのだろうか。それほど裕福でない人間がものを多く買ってしまうのは、ものを所有していないと不安になるという心理がそこにあるからだろうか。狭い場所でモノに囲まれていると落ち着くという人がいるのは確かだが。そういう人はきれいに整頓されている場所は居心地が悪いらしい。

 日本でも数年前から不要なものを捨てようという「断捨離」という考え方や、ものを持たない「ミニマリズム」というライフスタイルを実践する主に若い人が増えてきたようだ。それを報じる記事も時々目にするようになった。自分自身も狭い部屋にものがあふれている風景を毎日眺めていると、疲れを感じることが多い。しかし生来の怠け者だから、それを整理するという行動に移れないのだけれど。そしてそんな言い訳を自分自身に対してもう何年も繰り返している。

 「こんまり」という片付け達人の日本人女性の「人生がときめく片づけの魔法」という著書が世界的なベストセラーになり、とくにアメリカで大ブレイクしているそうだ。2015年の米誌タイム(電子版)の「世界で最も影響力のある100人」に日本から村上春樹と共に選ばれていることからもそれがうかがえる。世の中にはそれだけ片づけられなくて、悩んだり苦労したりしている人が多いということなのだろうか。あるいはそこには単に物理的に片づけるということだけではなく、「哲学」のようなものがあるから支持されているのか。読んだことがないのでそれは分からない。

 「ものを捨てる」「ものを持たない」ということは物欲から自由になるということだろうか。ものを持つことからくる不安や束縛や恐れから解放されるということなのか。たしかに何も持たなければ盗まれる心配もないし、メンテナンスの必要もない。ほとんどのものは自分が考えていたほど必要でもないし、使う機会もないのだ。いつか役に立つかもしれないと考えて何年も保有しているが、結局は使わなかったというものはたくさんある。

 しかし片づけることで人生がときめくとしたら素晴らしい。本当にそうなら試してみようとする人が多いのも頷ける。それは何歳からでも可能なのだろうか。誰がやっても例外なく同じような効果があるのだろうか。そうだとしても、何となく自分自身はそれを実践しないような気はするのだが。


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伊吹有喜 「ミッドナイト・バス」を読む。 

 著者の作品を読むのは初めてだし、著者のこともまったく知らない。どうしてこの作品を読もうとしたのかも分からない。時々そういうことがあるけれど。いい作品だと思う。登場人物たちの細やかな心理描写は、女性ならではかなと思う。映画化もされているようだ。見たい気がする。

 高速道路を使った深夜バスというものに乗ったことがない。スキーのツアーバスも同様だ。唯一都内に職場があったときに、最終電車に乗り遅れた後に、新宿や池袋から自宅のある郊外の最寄り駅まで運行する深夜バスに数回乗ったことがあるくらいだ。

 2016年に新宿駅の南口に「バスタ新宿」という大きなバスターミナルができて運用を始めたが、現在深夜バスの起点と終点もこの施設なのだろうか。経験がないので分からないが、深夜バスで故郷に帰るというのはどんな気分なのだろう。一度乗ってみたいものだが、残念ながら深夜バスで行けるところに故郷がない。

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柊鰯 

 昨日は節分だったが、今朝歩いていてある家の塀に「柊鰯」を見つけた。節分の風習として近世以降、鰯の頭を柊(ヒイラギ)の小枝に刺して戸口に飾るようになったと由来に書いてある。これは鬼の嫌いな柊の棘と鰯の臭気で鬼を退散させるためだ。つまり「鬼は外」と同じなのだ。鬼とは邪気である。邪気とは悪意や病気のことだから、「柊鰯」は厄払い・無病息災の目的で行われてきた風習なのだと思われる。

 「鰯の頭も信心から」という言葉がある。「イワシの頭のように取るに足らないものでも、信仰心が深いと尊いものに見える」といったような意味だ。「主に新興宗教などに対し、皮肉の意味で使われることが多い」とも書かれている。節分の風習として柊鰯を飾る家は信仰心が深い家ということなのだろうか。それともそれは単なる偶像礼拝のひとつに過ぎないのか。

 宗教的な話は別にしても、近頃のニュースを見ていると、「信じる」心を萎えさせるような出来事ばかり起こるようになったと感じる。「自分以外は何も信じることができない」と多くの人間が思うようになったら、この社会は一体どうなっていくのだろうか。

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